さばぺんタイムス

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「ポピュリズムとは何か」読みました。大衆は「泥酔客」なのか?

はいどうもーヽ(゚∀゚ゞ)!

砂漠のペンギン[@saba_pen]です。

 

ポピュリズムとは何か」という本を読みました。その感想でーす。

 

 

 

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ポピュリズム」。よく取り上げられる言葉だと思うのですが、「ポピュリズムって何?」って言うとなかなか難しいですよね。

 

すんごいザックリ言うと、「数こそ正義!あとは知らん!よろしく!ヽ(゚∀゚ゞ)」みたいなのをポピュリズムって言うんじゃないかなと思うんですけど。

 

たとえば、学級で考えてみましょう。クラスにはいろいろな人がいますよね。ここでは足が不自由で運動ができないAさんがいるとします。この学級でロングホームルーム何やる?という話になって、「バスケしようぜ!」という話が出てきたとしましょう。

 

Aさんのことを気遣う女子も何名かいるでしょう。しかし、ここでBくんが「多数決取ろうぜ!参加できない人がいても、やりたい人が多いならやった方がいいじゃん!」と言い出したとします。Bくんのような考え方を「ポピュリズム」と言っていいのではないでしょうか。

 

担任の先生としては、「Aさんも参加できるといいよね」となるでしょう。しかしながらBくんは、「先生、なんでいつもAさんのことをひいきするんだよ!」と言い出します。しまいには、「先生ばっかり決めるなよ!『自分たちのクラス』のことは『自分たち』で決めるべきだろ!」と言ったり。

 

ここで、学級の雰囲気が普段から良かったり、あるいは先生が信頼されている先生なのであれば、正義感あふれる女子が「Bくん何言ってんの?」と言ってくれたり、学級委員がうまい具合にまとめてくれたりするのでしょう。話はAさんのことを考える方向性に進むかもしれません。

 

しかし、学級の雰囲気が悪かったり、先生が普段から信頼されていなかったりすると、「Bくんの言う通りだよねー、先生ムカつくわー」となる人が現れるかもしれません。気が付くと、「バスケがやりたい」という理由ではなく、「何でも勝手に決めようとする先生がムカつく」という理由で、あるいは「よくわかんないけど、なんとなく」という理由でBくんに賛成する生徒も出現。もうメチャクチャですね。

 

最終的に、言い出しっぺのBくんが勝手に多数決を取り、賛成は半分を越え、彼らは勝手に教室を飛び出し体育館へ向かうのです。運動のできないAさんのことや、「他のクラスも体育館を使うかもしれない」なんてことはもはや関係ありません。

 

・・・というのが、「ポピュリズム」ではないでしょうか。学級だとしたら、これは見事な「学級崩壊」と言えそうですね。

 

 

本題。「ポピュリズムとは何か」という本を読みました。この書籍の「はじめに」では、こう語られています。

現代デモクラシーを支える「リベラル」な価値、「デモクラシー」の原理を突きつめれば突きつめるほど、それは結果として、ポピュリズムを正当化することになる

 「ポピュリズム」について語るとき、この一文はとっても大事な前提だと思うんですよね。だって、「主権在民」なんだから、民が「やれ」といったらやらなくちゃいけないですし、民が責任を負えるならそれをやるのは民の「自由」なんだよ、という理屈は崩しようがないと思うんですよ。そこに「道徳」とか「倫理」を持ち出したところで、「論理」には究極的にかないっこないんです。「道徳」なんて水物だし。

 

N国の代表の方が、よく「有権者」という言葉を盾に使いますけど、この理屈はある意味正しいんですよね。自分の意見は「有権者」によって正当化されているのだから、自分自身への批判は的外れだよ、という理屈。まあ、「有権者」という言葉の持ち出し方がかなり恣意的というか、都合のいいように使っているだけというか、そんな感じですけど。

 

ただ、まさにあれは「ポピュリズム」を体現したような存在だと個人的には思っています。

 

ポピュリズム」を持ち出されたときに1番困るのは「少数派」の人たち。民主主義っていうのは少数派のことを考えてあげなきゃ成り立たないんだけど、「ポピュリズム」のもとでは彼らは根こそぎ根絶されかねないので。ナチス・ドイツにおけるユダヤ人の大量虐殺がいい例ですよね。

 

それに、一つの「少数派」を根絶したところで、結局また別の視点で「少数派」が生まれますからね。そして対立、根絶、が続いていくんですよ。それは、20世紀が証明していることですから。それに、「少数派」もおとなしく根絶されるわけでもないでしょうし。

 

そう考えると、「ポピュリズム」とは「敵を見つけ、戦う思想」だと言えるのかもしれないですね。

 

「考えすぎ」「そこまで極端になるわけがない」というあなたに、私は何度でも「あのころはフリードリヒがいた」を読むことをおススメしますよ。

books.rakuten.co.jp

 

さて、おわりにはこんなことも語られています。

ポピュリズムは、「ディナー・パーティの泥酔客」のような存在だという。

・・・この厄介な珍客をどう遇すべきか。まさに今、デモクラシーの真価が問われているのである。

 

私は、この「ポピュリズムとは何か」という本は、この終結で全部台無しになっていると思っていて。せっかく「ポピュリズムそのものは悪いとは言い切れない」という、大事な視点を与えてくれているのに、最後の最後で「厄介な珍客」扱いしているわけですから。「おまえら、よっぱらってんだぞ」と言われたら、誰だって怒りますよね。

 

理屈で考えたら、「ポピュリズム」というのは正当に存在しうるもので。これをマイナスに捉えたり否定したりしてしまうと、絶対にうまくいかないんですよ。大事なのは、この本にある通り「巧みに使いこなせる」ようになることで、それを行える立場にあるのはまさに「大衆」でしかありません。言い換えれば、私たち一人ひとり。

 

ただ、厄介なことに、この「ポピュリズム」を都合のいいように使う人たちもいるわけです。もしこの言葉がマイナスに用いられるとしたら、そういう時だと思います。例えば、N国が分かりやすい。彼らは正しく「恣意的ポピュリズム」です。それが何をもたらしうるかということは、ちゃんと考えないといけない。都合のいいように使おうがなんだろうが、彼らの文脈では「数こそが正義」ですし、それは「主権在民」の世界では成り立つ可能性があります。

 

だから、みんなが正しく「知る」ことって大切だし、そのために「分かりやすく」っていうのはすごく大事だと思うんだけど...学者の方々、ぜひもっと、かみくだいてほしいなあ。学問って何のためにあるんだろう、ってことですよ。

 

そんな「分かりやすく」を、砂漠のペンギンは応援しています!!以上です!!

ァディオ───(`・ω・´)ノ───ス